師匠との出会い、そして別れ
ロースクール。
ロースクールは人生最後の学生生活の場となった。
年月を経た今でも大学の近くを通るとあの頃に戻ったような不思議な感覚に襲われる。
試験終わりに行った安い居酒屋、たまに休憩で行く喫茶店。全てが今では嘘のようだ。
早くこの生活から抜け出したいと思っていた「あの頃」は、今ではもう一度戻ってみたい「あの頃」になっていた。
一生懸命頑張った時間というのは、記憶すら鮮明になる。
大学の校舎。試験会場へ向かう人々。5月の心地の良い新緑。
あんなに辛い思いでも、今では時間に浄化され、美しくさえ思える。
そんなロースクールで私はある人と出会う。
敬意の念を込めて師匠とよばせてもらおう。
読者の中に、ロースクール時代の師匠を持つ者もいるだろう。
私にはいた。
私にもいた。
師匠と呼ぶだけあって、私の恩師でもあり、勉学の師でもある。
ロースクール時代、切磋琢磨したものだ。師匠に対して切磋琢磨という言葉も烏滸がましいが。
実力的には全く歯が立たなかった。
師匠は旧司で所謂合格待ちの実力者であった。
ロースクールでは大変お世話になった。
定期試験もいつも一番。奨学金ホルダーで授業料全額免除。
模擬試験でも上位の常連で、参考答案になることもしばしああった。
何で旧司受からないのかわからないほど「圧倒的」実力だった。
そんな誰もが合格を疑わなかった師匠。
私も初めての「新」司法試験受験。
迎えた新司当日。
師匠は体調不良。
まさかの不合格。
ロースクール在籍時に旧司を二度受験した為、まさかの三振。
※新司法試験時代、ロースクー在籍時に旧司法試験受験も受験にカウントとされた。
何も声をかけられなかった。
三振を経験した者には理解できるだろう。
三振の重み。
時が経った。
サラサラと時間が流れた。
あれから10年近く。
師匠は三振後、音信不通。
私からも連絡は取らない。
それから合格した噂も聞かない。
「弁護士」、「師匠の名前」で検索してもヒットしない。
今でも尊敬している。
今でもあなたの書いた論文、大切に持ってます。
捨てられないです。
師匠。
また、どこかで笑って飲みたいです。
これを見ることも多分ないでしょうが、見てたらぜひ連絡ください。
司法試験に失敗すると何故連絡を絶つのか
司法試験に失敗すると、友人だった人が急に連絡を絶つ。
これは何も司法試験に限った話ではない。
高校受験でも、大学受験でも試験の失敗を機に連絡が途絶えることは間々あることだ。
とりわけ司法試験、ロースクールではその率が突出して多い。
2年若しくは3年という長期間同じ机で勉強に打ち込んだ仲なのに。
一生懸命になればなるほど、又、本気になればなるほど失敗したときには、期待してくれた相手には顔向けできない。
よく、カラオケを歌う際に「これ初めて歌うんだよね」とか言って保険をかける人がいる。相手の期待値を意図的に下げるという操作をする。結果が期待を上回らなかった際に、自分が傷つくことを防止しようとする。
司法試験では、努力量が尋常じゃないため、「努力してない」「勉強してない」という言い訳が効きづらい。
客観的に膨大な勉強量を相手に見せている手前、期待値の操作が効かないのである。
不合格という結果が相手の期待値と剥離すればするほど、プライドは大きく傷つき、傷がとうとう閾値を超えた際、もはや縁を断ち切ってまでも逃避するという選択をするのだ。
論理的に感情を整理すると上記の通りだが、実際はもっと複雑である。
これは経験した者にしか理解できない。
司法試験に限らず、就職で失敗、恋愛で失敗、多くの失敗で同様の状況になる。
その気持ちが理解できる者は、相手に対して求めない。
そう、「そっとしておく」こそ最良のケアである。
相手から歩み寄ってきた際には、かつてと同じように、飯でも食ってただ笑いあおう。
コメント
師匠話面白いです。きっと八神さんを師匠と思ってる人もいるかと。